昭和57年9月15日朝の御理解
                       入力者大坪寿子
御理解81節
氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうへおりたら、それで安心じゃ。気を緩めると、すぐに後へもどるぞ。

 今朝がたから、あたくし、御夢を頂いたのに、もう、30年も前に、椛目の、あまー早々のころでしたが、福岡からお参りした方が、あるまー、難儀な問題で参ってきて、その時、い、一回だけお参りしてきた方。夢んなかでその方がはっきり現れ、て、が言われるのに、あのー、当時の椛目に、ご参拝のおかげを頂いて、「親先生から、えーマッチ一本使うても、あのー、マッチの軸にもお礼を言うのですよ。と言うお言葉を頂いて、30年間これだけは守り続けております」というてタバコの、ケース、片一方には、タバコが入っている、片一方にはそのマッチを使った、すぐ後を消してから、中にいっぱいたまっているところを、今日お夢頂いたんですけれど、一つの節を、合楽にはまーだ参ってきておらんけれども、そん時の先生の言葉を30年間守り続けております。そしてあん時にお願いした難しい問題も、解決し、あれこれと、今日繁盛のおかげを頂いておるのは、このマッチ一本にもお礼を言う心を頂き、持ち続けてたことですというのです。あたしは今日のご理解を頂いて、えー、とにかく、10里の坂を9里半登っても油断をしてはならんという、あたくしどもの場合、確かに(?おいしいには)でけとるようにあっても、なにかの調子に、何かのときにね、それを、あのー、おー、なんというか、後へ、言うならば、あー、戻ってしまうような事では、あー、10里の坂を登って向こうへ降りたらというような、安心のおかげは受けられないと思うです。
 えー、昨日、竹内先生が毎日新聞か、の記事を、大きく掲載されておったから、というて読んでくれましたが、今大阪で、えー、「金光大神の生涯、あいよかけよ」というお芝居があっておる。中村せんじゃく、かんじろうさん親子が、ご信心ですから、自分達が願い出て、今度の、あー、お芝居に取り組んで、今あっておる、その模様が書いてございました。それを演出した人は、なんか、「のむぎとうげ」とか何かって言う映画を作った人で、2千万から損をしたそうです。赤字が出たそうです。それでもうどうにも、おー、でけない時に、子供の時に、お、母に連れられて参った教会にお参りをして、それからおかげを頂いて立ち直ったと。まーそういうような事もあって、えー、「自分が是非演出をしたい」いわゆる教組金光大神のご生涯というものは、うんそのー、劇的なといったようなものがないわけですね。まー、ドラマを作るのには非常に、まー、こう、面白みと言うか、切れ実がないわけです。まそれを、教組金光大神のおー、生涯を、一、当時、農民としての、おー、ご生活、実意丁寧なご生活から、神様を知られる過程が、お芝居になってるんだそうです。その中に、うーん、金光大神を今の世に現すという、ような表現がございました。この頃あれは、名古屋でしたか、東京からここに、泊りがけで、まー合楽の信心を、まー見にみえた先生がおられました。その方の手紙の中に、「合楽の先生は、教組金光大神の信心を現代に現しておられる人だ」という手紙の内容がございました。あたくしもそう信じます。もうほんとに、あのー、現代の世に、現代の人にも、わ、感じれれる、分かる、表現で、金光大神のご信心を現しておるのが合楽教会だと、あたしは思うです。ね。教組の神様がウソをおっしゃっていない。というそのー、まー、分かりにくいというか、分かりよいと言うか、あまりにも平凡な言葉で教えが残されておりますから、なかなか深遠さというもの触れられない。そのところをいわば合楽では、あー、教祖のお言葉というものが、こんなにも深い、こんなにもひろいということを、あー、現しておるのが、御理念なんです。ね。またはそれをひっくるめると、一切神愛論。教組金光大神は一切神愛ということを、おー、把握された方です。もうあとにも先にもこんな宗教家はないだろうと、まー言うわけですが、うーん、そういう信心が、教組ご自身だけのものではなくて、みんなもこの通りのおかげが受けられると、おっしゃっておられますから。それをだんだん頂いて、なるほど教祖様がウソをおしゃっていないなと。しかもやっぱその時代時代にです、マッチしたと言うか、その時代、思想というか、時代に、うーん、ひとでも、もう、分かる、表現を持って教えられておる。なるほどあたくしはまさしく、合楽の場合は、はー、今の世に金光大神を、現代の人に分かるように現しておるのが、あー、合楽教会だという風に、もちろんこれは、限りがないことでございますけれど、ね。ですからそういうなら、あー、合楽の信心が、どうして合楽に開けてきたかと。これはあたくしは、生まれてまー、物心、つく、うー、信心、えー、えー、から、今日まで、えー、のことを、すーっと思うて見ますとね、あたくしの場合には、もう、きれたというところが全然ありません。えー、それは勿論、おかげおかげの時代から、ね、いや信人信心と、まー、いうふうに分からして、えー、頂いて、えー、もう人間の世界にまたとないだろうと思うほどしのおかげを頂いておるわたくし。ということがね、ここでまた、それを、かんなろうてくださる人たちが、やはり同じおかげに繋がっていけれる内容を持っておるということ。これはあたくし自信の、ねー。神様の氏子がたくさんおる中に、あたしほどおかげを受けておるものはなかろうと。どういう見地から言う手ても、ほどしのおかげをいただいて、思う。まー今日のご理解を頂いて思うことは、ね。いうならば、ね、峠を越えて、向こうへ降りたという、まー、信心が、だんだんわたくしに、身に、身についてきた。たとえば、油断をする。後へ戻る。油断をする。後へ戻る。もう何十回繰り返しても、この峠が越せない信奉者が実は多いのじゃだろうか。いや、また、辛抱強いというても、焦点を間違えての、信心者が、そのくらい多いか分からない。この道を行けば、絶対天地に繋がる道。お徳が頂けれる道。教組がうそをおっしゃってない。信心すればだれでもが御神徳が受けられると言う、そのご神徳の世界へむかう、その手立てと言う物が、間違いなく絶対の道として説かれてあると。わたくしは今朝からそんな御夢を頂いて、まー、細々ながら、あたくしの信心は、あのー、切れなかった。ね。おかげの信心から、まそれから、あー、お徳を受けていく信心と、いうならば、おかげの世界から、信心をいよいよ求めての信心。しかも様々なことがあったけども、そこに一つも揺るぎがなかったと。ことが教祖様が言うておられる、ね、この方ばかりがとおっしゃられるような生神ではない。みんなもその通りのおかげが受けられる。私も思うことは、今のこの調子で行きゃー、私も生神様になれるぞと。言ったような物を感じるんです。そしてわたくしのほど、いうならばおかげをいただいておるものはなかろうと、こう思うほどしに、おかげを頂いておるんですけれども、みなさんこの信心にはなんというても、貫くということが、一番大事です。ね。それはやっぱり、9部9厘というた時には、苦肉がかさなるような難儀はありますけれども、泣く泣くでもやはりそこを辛抱しぬいて、通り抜けなければ、いうならば、堂胴回りと言いますねー、信心の堂胴回りと。おかげは受けておる。けれどもそれは堂胴回りである。い、いつまでたっても、教組が言われるような、おかげの世界にすむことが出来ない。ね。それいろんなことがありますけれども、そこんところを、わたくしは、信心辛抱を持って、いわば貫かせてもらう。しかも合楽では、この道を行けば、絶対と言う、道が教えられるのですから、いわゆるこんな場合、合楽理念を持ってすれば、こういうときにはこうあらなければならないということを、教えていただくのですから、ね。そのとおりにね、辛い苦しいと言うときもあろうけれども、そこを貫いて、初めて、おかげが頂かれる。それも今申しますように、金光大神のいうならば、信心を、ね、今の世に、ね、今の、現代の人にも、わかり、分かるように、説いてあるのが、合楽理念だと。だからそのご理念をです、いよいよ身につけて、いわゆる血肉にして、ね。切れ間のない、緩みのない、後ずさりをしない、堂胴回りではない、一歩でも前進させてもらおうと、それはあたくしの信心を振り返ってみて、おかげおかげの信心が長かった。けれどもいよいよ、いわゆる真の信心という、その、おー、信心の眼目に向かってです、ね、分からなかったから、もうあらこれと、真の信心とは、真の信心とはと、まー、修行させていただきまして、ね。初めて真の信心とはこれだ。こうだ。というようなものを、わたくしが、体験させてもろうて、それを皆さんに伝えておるのですから、分かっていただくだけじゃなくて、それを辛抱し貫く、信心の修行がどうでもいると思うですね。どうぞ。